ピクトリアリズム(絵画主義)自体は、絵画のような表現を写真でも行うという流れで、プロ写真家協会から、技術的欠陥とされた、ブレ、ボケ、なども、排除せず、写真の表現に使うということで、
元の画家たちの絵画の流派も、色々である以上、
画家の作風の数だけ、写真家の行った絵画主義=ピクトリアリズム作風があるのが正解なわけで、
画家兼画商だった、Henry Lerolle(3 October 1848 – 22 April 1929)は、付き合いのあった画家たちの画風をそれぞれまねて、何派とも言えない状態だったw
彼は代表作は写実派ですが、ドガの友人兼パトロンだったので、印象派の表現を生かした絵画も自分で描いていましたw
1880年後半ごろから、1920年代末ごろまでの、妙にソフトフォーカス的な表現にこだわった一派のことだけを、ピクトリアリズム(絵画主義)グループというのは、広い意味では間違っています。まあ日本でいうと、同時期はソフトフォーカス的写真マンセーとかいうのが、ピクトリアリズム(絵画主義)みたいな状態だったりしたのはありますが(日本では日本独自の変な写真文化があり、写真で芸術を志すのはアマチュアの道楽とされた。英国やフランスではサロンやプロ協会などが徹底攻撃して無視、締め出す態度があっても、ほかの絵画などの芸術家や、美術館、英国ビクトリア女王などが、そうした「芸術」写真を高値で買い取る状態が19世紀半ばには普通で、欧米では、プロの芸術写真家は実際は早くから誕生して、そこそこの財産を作った人も少なくなかった
写真におけるボケ、ブレ、アレなど、不完全性を表現に取り入れる作風の歴史
日本では、芸術としての写真を追求する人は、プロではなく、アマチュア写真家だとする風潮が1980年代ごろまであった:日本のブレ、アレ、ボケ表現の初期
まあこの時代ピクトリアリズム(絵画主義)の大多数が、ソフト志向の主流派であったことは間違いないですが。
大学とか称するお遊戯クラブの三文教員の駄文では見逃されていたりしますが(まあ碌な写真も撮れない無能が写真表現論じてる時点で喜劇ですがw)、時期的に、
1:これまでのようにピントをわずかに外すことでソフトなピントにするのとは異なり、ジャスピンでもピントが柔らかい、ソフトフォーカスレンズが、一部は19世紀末、20世紀初頭発売された
2:シャープにはならないプリント印画法ピグメント印画の各種手法がこの時期、多数公開された
3:コダックは、1888年、ピントを押すだけでアマチュアにも簡単に撮影できるという、フィルムカメラを発売(カメラごとコダックの工場に送り返すとコダックが、現像、印画も全部やって新しいフィルムも装填)。固定ピント、固定シャッターで、アマチュアが扱うと、ぶれやすい、条件によってはピンが合わないカメラで、まあ、いってしまえば、ソフトフォーカスみたいな写真ができやすい
という、ソフトフォーカス的な写真が流行ってもらいたい、商業上の理由が、この時期のピクトリアリズム(絵画主義)のやたらソフトな画像が目立ったことと、関連もあるというのは、少なくともピグメント印画法については確実に言えます。
のちの森山大道、のボケブレアレも、作風をどうするか悩んでいた中平卓馬が、実験的のボケブレアレを積極的に取り入れた写真を試み、森山らが、参加していろいろ実験的活動をやっているのを見た、カメラ毎日の山岸が、一気に売り出させた。そして反響も大きかったが批判も多かったので、カメラ毎日山岸は、正反対のコンプラ写真をはやりだと仕掛ける
とまあ、写真の表現のはやりには、商業的な裏があったりするのは、カメラや写真が大衆商材として儲かるようになると目立つわけで、固定ピントとシャッターであるため、ボケたりぶれたりしやすい、コダックのアマチュア家庭向けカメラに肯定的なカメラ雑誌の流れを作りたいから、ボケブレ容認の作風の作家を支援したのかもしれないという「邪推」は、「証拠はない」にしろ、一応頭の中に入れておいたほうがいいかもw
というのも、コダックやライカなどが、1920年代以降、アマチュアにもピント合わせができる、シャッター速度が変えられるカメラ=ピントが前よりシャープでブレも減る、を発売、普及させると、同時に、ソフトフォーカス的な写真が一気に衰退するからです
4:職業人や特に裕福な人のものであった写真が、乾板の登場で、扱いやすくなり、さらに1888年のコダックのフィルム内蔵、現像サービス提供のカメラで一気に、敷居が低くなり、プロ写真家協会だけが独占していた、写真に関する表現の在り方に、アマチュアが専用アマチュア雑誌などを通じて多数参加し、19世紀にプロ写真家たちが異端としたものでも、肯定する流れが出来上がった
ピーター・ヘンリー・エマーソン(Peter Henry Emerson (13 May 1856 – 12 May 1936))は、当時の異常なシャープネスを追求する風景写真をおかしいと考え(もっともトップクラスのプロ写真家Francis Frith(England 1820-1899)など、それ以前からそういう考えを持つ人は珍しくなく、彼が別に先駆者でも何でもない)、ソフトフォーカス的な風景写真に取り組んでいますが、風景には合わないとしましたが、それでも当時の主流の風景写真の撮影の仕方が正しいとも思っておらず、折衷型の自然主義写真(Naturalism、Naturalistic photography)を提唱しましたが、絵画志向も残っているので、彼の行動も、ピクトリアリズム(絵画主義)の派生の一派とも言えます
フランスロマン主義の画家・フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798年4月26日 – 1863年8月13日)など、の画家たたちは、初期1840年代ごろからは、やたら隅々シャープな写真に喜んでいる、写真家たちの行動に疑問を呈していました。彼自体は写真撮影はしなかった、知人に撮影させたり、あるいは市販の画家向け資料写真を買っていたようですが(市販品の資料写真を買っていたかについて確認はしていない)。19世紀のきっちり解像写真は、人間の目に見える光景やモデルという観点でいうと、まったく不正確であると、当時の「隅々まで解像してシャープな描写」を、カルト宗教のようにあがめていた職業写真家に批判を加えていました
ドラクロワ自体が、フランスのアートレビュー誌に1850年、以下の意見を投稿して公表したことでもわかります
“copie, fausse en quelque sorte à force d’être exacte” Eugène Delacroix, “Revue des arts”, Revue des deux-mondes, septembre 1850, p. 1139-1146 (“【The Professional Photos of his time are】Inaccurate, so to speak, low-quality copy” 「【写真家たちの撮っている写真は、現状異様な解像にこだわっていて】不正確、いわば低品質のコピーである」)
*en quelque sorte = as it were, so to speak, いわゆる
*à force de = by force 力で無理やりに
まあ、クリエーター界の回虫である、大学の学者とか評論家が飯のネタに、その辺のカメオタと同じ精神構造で駄文を書いて、世の中をちょろまかすには「風景論」「コンポラ写真」「ピクトリアリズム」「ナチュラリズム」分類レッテルごっこは楽ですがw
*ちなみにフランスなどでは、国営のパリのサロンに認められて展示されないと、プロの画家になれない状態が、19世紀後半まで続くので、サロンの審査員が気に入らない作風の画家は、プロの画家としてやっていくのが困難でありました。まずは評議員のお眼鏡にかなう作風から始めないといけなかった。
このフランスのサロンは、写真のほうも牛耳っていたので、隅々までピントが深く、ブレ、ボケを極力排除した写真以外は異端とされている時代が長かった。このためフランスでは、時代ごとにサロンに受け入れられた作風などを、ロマン主義、新古典主義、。。。主義などと分類がしやすくなっていたのですが、印象派などが、自分で勝手に個展を開くようになり、サロンを無視し、サロンなしでも、画家は好きな作風で自分で展覧会を開いて画家として売り出しやすくなりました。
そうなると、それ以前のように売り出すために、まずはサロンの評議員たちの審査に気に入られるため、過去の作風に沿った絵画をやっていた習慣が変わり、最初から自分流を追求するようになり、
サロン自体も国営から民営化に格下げとなり権威が消失すると、それ以前には有効な、何々主義の作風とかいう分類がむつかしい時代となっていきます まあ、これと同じことは、SNSの発達とともに、カメラ雑誌コンテストの権威が失墜していったのと似てますね
そこの審査員に気に入られるかに気を遣わず、SNSで写真を公開すると、評価する人が勝手に集まり、人気度が確定する
アマチュア3DソフトPoserで、RWBYという商業アニメを作るために、アマチュアから総監督に一気に抜擢された、Monty Oum氏は、キャラデザインとかのイラストレーターも、SNSで探して抜擢しましたwどこぞのつぶれたマイザとか言うストックフォト会社は、イラスト学校で首席でないと当社のストックイラストは、とかかいてましたが、客は作ったイラストが使えるかどうかに興味があるのであって、しかもそれが適正価格かが関心事で、そのイラストレーターの学歴や成績、まして入社試験のはなしなんかどうでもよかったので、マイザはソースネクスト(だった?)に売り飛ばされて、社長の学校資格うんちくの結晶CD素材は、アマチュアの適当に撮ったピクスタ写真に蹂躙されます
Monty OUMはネットのアマチュアたちから才能を探し、学歴とかは全く二の次で、仕事を任せRWBYを大ヒットさせることに成功します
写真レンズとボケ評価文化:そもそも写真レンズのレンズ設計による個性的なボケを論じるような、基盤は1930年売くらい以降にならないとそろわなかった事実を忘れる「暈け=ボケ」学者と評論家たち
Frithは1860年代からイギリスを代表する商業写真家として認知され、当時の常識、絞りはできるだけ絞って、被写界深度(ピント)を深くし、全面にわたってシャープな、作風を堅持しましたが、彼は商業写真としてのこうしたスタイルは必要と考えながらも、写真を絵画のように表現の手段として考える場合、エッジの立ちすぎる過剰なシャープさが問題になると、解像しすぎない写真レンズの開発話などで、設計者のアイディアなどを聞くと関心を示していた。
そう、日本の変な大学の学者とかが妄想するような、写真のボケ表現は、日本人特有のあいまいさを取り入れて、独自の進化を遂げたものだというように読める駄文の数々は、実際は妄想*そもそも20世紀初めまで、交換レンズのボケの個性というものはほとんど存在せず、当時のレンズはどれも、開放絞りではぐるぐる渦を巻くようなボケが出て、絞りを絞ると落ち着くという、似たり寄ったりのボケ質だったので、レンズ設計の違いによるボケを論じたリ評価するような文化は成立しようがなかった。いろいろな個性的なボケを生み出すレンズ設計ごとによるボケ質の違いの評論が成立しだすのは、20世紀になって、いろいろな特徴のあるレンズ基本設計が考案され、それが普及しだす1930年くらいになってからようやく、始められるようになった。
レンズのボケ(20世紀初めの当時は、英語圏では、BokehではなくOut of Focus Blurとか、Defocus Blurなどといわれた)のなだらかさが、評判になったのは、
ドイツのフォクトレンダーVoigtländerが1900年に開発し、1902年に改良型を出した(https://worldwide.espacenet.com/patent/search/family/000411360/publication/DE143889C?q=pn%3DDE143889C)、Heliar(ヘリアー)光学系のレンズ(Heliar Lens F5.6)が登場した時、その端正なボケのすばらしさで、一躍ポートレートを撮影するプロ写真家の間で評判になったことが始まりの模様
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ボケ(Bokeh)の用語起源【写真撮影】The Origin of Bokeh in Photography; Flou (French) vs Bokeh(Japanese)
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森山大道、写真はアートであってはならないという発言の本音:写真はアート手法の一つとしたウィリアム・クラインと共同展覧会を開いている事実